Thursday, January 14, 2016

謙遜と十字架



謙遜は、キリストの十字架抜きではありえないです。私たちは、十字架の素晴らしさを心に抱くのです。が、その素晴しさは、主の十字架の苦しみと謙りにあるのです。主は、裏切られ、責められ、バカにされ、つばかけられ、むち打たれ、そして、死刑にされました。このキリストの犠牲によって、私たちも、謙れるのです。十字架のふもとで、謙るのです。

ドナルド・イングリッシュは、こう言いました。「この世でのキリスト者の奉仕の源は、私たちを解放するために十字架につけられた復活された主にあって、またこの方によって仕えるのです。」ジャン・オーウェンは「罪が無くなるように、キリストの十字架で心を満たしなさい」と書きました。

ロイド・ジョンズは、歌を含めてこう語りました。「私を地まで砕く、ちりまで低くするのは、私が知っているものの中では、ただ一つ。そして、それは、神の子、特に十字架、を仰ぐ事です。
十字架に架かった
主イエスを仰げば、
たからも誉れも、
あくた(かす)と変わらず。
他によってでは無理。自分が罪人だと分かる時、十字架の神の子のみが私を救う事が出来る事が分かる時、私は、ちりまでに低くされます。十字架のみが謙遜の霊を与える事が出来ます。」

ジョン・ストットは、このように書きました。「歴史にあるもの、宇宙にあるもの何も、十字架ほど私たちを小さくして下さるものは無い。カルバリーという所を尋ねるまで私たちは、皆自分についての慢心した思いを持ち、特に自己義認があります。そこで、十字架のみもとで、私たちの本来の小ささを見て小さくなっていくのです。。。十字架は、けしてお世辞を言わずに、私たちの自己義認の土台を崩します。(十字架の前に)頭をかがめ、砕かれた心で立つしかありません。」

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」ガラテヤ6:14

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