Wednesday, January 8, 2014

キリスト中心のメッセージ 第二回キリスト中心のメッセージの手


ブライアン・チャペル博士による学び
    キリストを宣べ伝える、聖書全体にあるめぐみを伝えよう
キリスト中心のメッセージ 第二回キリスト中心のメッセージの手

2 前回の学びの目標は聖書全体を通してキリストに焦点を置くことの重要性を理解する
ことでした。

目標: 
3 さて今回の学びの目標は資料の一番上にあります。そこにおられるキリストをのべ伝 えるため、どのように聖書を解釈するかを理解すること、です。この目標と同じことをカ ルヴァンはこう言い表しました。”われわれは聖書から益となることはすべて集めなけれ ばならない、常に我らの主イエス・キリストのところに行き一時も背を向けず、目を注が ねばならない。一生懸命聖書を読んでいる人がいるが、ただただページをめくっているだ けだ。なぜかといえば特定の焦点となるものがないのである。それ故にページを行ったり 来たりするだけで終わってしまう。いろんな文章をあつめるものの結局何の価値も見いだ せないでいる。そうやって骨を折っている割には、すべてが支えられている点すなわち我 らの主イエス・キリストを知らずにいるのだ”今のはカルヴァンがエペソ書2章について した説教から引用しました。さてカルヴァンが言うすべてが支えられている点、とは何で しょう?常に何を見つめればいいのでしょうか?カルヴァンはそれがまさにイエス・キリ ストであると言っています。聖書のすべての言葉はひとつ残らずその点について書かれて いるのです。

I、第1回の復習
A. 
4 くわしい方法論に移る前に一回目の議論の復習をかねて大切なポイントを押さえてお きます。模範的な説教とか、模範的なメッセージとか呼ばれるものが実は道徳主義や律法 主義に凝り固まっていることをお話ししました。ポール・ポイストラという先輩がある有 名な本の付録を紹介してくれました。著者の名前は伏せますが、その付録は”教会学校の 脅威”と題され、中にこう書かれていたのです。”悪気はないのだが、教会学校の先生が子 供たちに福音の理解を難しくさせている”と。”花子ちゃんいい子になったらイエス様は愛 してくださるよ。太郎君もいい子でいたらイエス様が一緒にいてくれるからね”これは普 通ですよね。でも何がおかしいかもうお分かりでしょう?これはクリスチャン的メッセー ジではなくて反クリスチャン的メッセージです。神様は太郎君と花子ちゃんが何かしたか らといって、愛したりかわいがったりするわけではありません。

B. 
5 本当のクリスチャン的メッセージとは必ず贖いに焦点を置いているものなのです。

C. 
6 では贖いの要素のないメッセージの見分け方をおさらいしましょう。まずは頑張りま くる主義のメッセージ、努力のみをうったえます。今週はもっと頑張りましょう。自分を 起こしてさらによくなりましょう。こういう頑張る主義的メッセージは危険なBeで表さ れます。Be like、誰それのようになれ。 Be good、よくあれ。Be disciplined、訓練さ れよ。しかしここで重要な条件があったことを覚えていますね?このBe自体は間違った 内容ではないのです。何が間違いを生むのか覚えていますか?それだけしか出さないこと です。私たちのいうことがすべて誰それのようになりなさい、よくありなさい、訓練され なさいでは駄目なのです。脈絡を考慮すればただよくありなさいと教えている箇所は聖書 にはありません。脈絡はキーワードでしたね?

7 資料も合わせてご覧ください。繰り返しますが脈絡を無視すればクリスチャン的では なく反クリスチャン的メッセージとなります。なぜでしょうか?それはこういうメッセー ジをすると必然的に本当の意図とはうらはらなことを語ってしまうからです。それは次の ようなことです。

8 1、自己聖化は達成できる。自分のやることが自分を聖くするのである。2、神様に 受け入れられるかどうかは自分の行い次第である。3、道徳的な行動は人間の益となる。 これは聖書の教えと相反します。

9 イザヤ書64章4節は人間の義は何であると言っていますか?”不潔な着物”です。ル カの福音書17章10節も”自分に言いつけられたことをみな、してしまったら「わたし は役に立たない僕です、なすべきことをしただけです」といいなさい”と書いています。

10 ウェストミンスター信仰基準の16章5節にもこうあります。「わたしたちは、自 分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績とし て得ることはできない...」とあり、さらに続けて「わたしたちはよきわざによって神を益 することも前の罪の負債を神に償うこともできず、かえって、なし得るすべてをなした時 にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり、またそれが善であるの は、それがみたまからでているからであって、わたしたちによってなされる以上それは汚 れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないか らである。」なんという驚きでしょう。人間の善行は神の裁きに耐えられないのです。そ れどころか最高の善行すらも裁きに値します。しかし信者たちはキリストを通して受け入 れられています。その善行も神にあって受け入れられます。人間にあってではありませ ん。善い行いはキリストにあって受け入れられるのです。あたかも人生すべてが神の御前 に非の打ち所がない叱りようのないものになるというのではありません。人間の良い行い が神様に受け入れられる唯一の理由は何ですか?キリストの義によってそれが包まれるか らです。人間的な視点で見て善いことだからではありません。人間の徳ではなくキリスト のわざ故に神様は受け入れて下さるのです。
 
このことを考えると子供の頃の思い出がひとつよみがえってきます。テネシー州西部で は子供の頃覚えなくてはならないことがありました。大きなのこぎりの使い方です。家の 家族が電気のこぎりを知らなかったのではありません。父親もおじいさんもひいおじいさ んも男は代々二人用の大きなのこぎりを使えるように仕込まれてきたのです。アメリカ南 部ならみんなそう、二人用の大きなのこぎりを習うのは伝統でした。心地の良い秋の朝の ことです。そののこぎりを使って丸太を切っていました。一本の丸太を台の上に乗せて、 のこぎりをかけていたら内側が腐っていたのですね、全部切り終わる前に割れて台から落 ち地面に勢いよく当たったのです。その衝撃で腐っていた切り口は妙に面白い形になりま した。子供時代は想像力が豊かですから、わたしは”ふーん腐った所が馬の頭みたいにみ えるなぁ”なんて思いました。そしてその日の仕事が終わると、その腐った丸太をもって 脇に抱えて家に帰りました。それからクリスマスだったか父の誕生日だったかはっきり憶 えてはいませんがそ、の腐った木の馬の頭に厚い板を釘で打ち付けて棒で足をつけロープ でしっぽをつけました。それから打ち付けた板に釘を何本も打ち、それを肉屋の包み紙で くるみリボンを巻いて父にプレゼントしたのです。父は包みをあけてまじまじと見、こう 言いました”これはすごいなぁ、ところで何だい?””これはネクタイ掛けだよ、横に釘が何 本もあるでしょ?ここにネクタイを掛けるんだ””ふ~ん素晴らしいな、ありがとう”父はこ の腐った木で出来た馬の頭を自分の部屋にもっていきました。ぐらぐらしてまっすぐ立た なかったのでタンスに立てかけ、それから何年間もネクタイ掛けとして使ってくれたので す。正直言って最初にこれをプレゼントしたときはすごいものをあげたと思いましたよ。 まさに芸術、いつでも美術館に飾ってもらえると思いました。本当に素晴らしかった。  しかし私はすぐに成長し、”お父さんいいかげんにそれ捨ててよ、頼むから”と言うよう になったのです。でも父は愛をもって受け取ったからと言って大切にしてくれました。物 が良かったからではなく、父の心が優しかったのです。愛をもって父は受け取った。プレ ゼントが受け取られたのは父の善意のため、馬の頭に秘められた善ではありません。人の 善意は確かに良いものですが、それが神様の前に人間を正しくするものではありません。 確かに人間は神を愛していますからその愛をもって善い贈り物をささげますし、神様はそ れを受け取って下さいます。しかし神様が受け取って下さるのはあくまで神様が人間を愛 する優しい心があるからで、人間に善意があるからではないのです。人間の善良さなんて 神の受け入れに値するものではありません。というわけで次の事が分かります。

11 私たちが語るメッセージは聖書的でなくてはなりません。すべて恵みのこと、救い のこと、それからそう聖化、聖化も救いです。「すべてのことが、神から発し、神によっ て成り、神に至る。(ローマ11:36)」と聖書は語っています。恵みはそれぞれの世 代が再発見しなければならないものだと考えます。それは聖さを増すとか純潔さをうなが すということを考えるあまり、見失われがちになるからです。  それにしてもなぜ私たちは恵みについて、これほど心配するのでしょうか?そしてなぜ 神様の恵みを得るために何かをしなければいけないのではないかと心配したり、あるい は”すべては恵みによるのです”と言ってしまうと、何でもしていいと思われてしまうので はないか、などと恐れる必要があるのでしょうか?さらに聖い生き方を強制してしまうの ではないかという心配が恵みを語るのを恐れさせるのです。このような心配が私たちにあ
るので各世代の人々は恵みは何を意味するのか、恵みは私たちに何をもたらすのかを再発 見しなければならないのです。

12 バベルの出来事が聖書の最初の方で描かれているのは、私たちの誰もがしそうなこ とだからです。これは人間への警告です。神への道を自分でたてる人間の働きによって神 様の所にたどり着けるわけがない。人間は一人残らずこういうことをしそうになります。 だからこの危険信号は聖書の始めの方に出されているのです。そして神様は何度も何度も それが違うことを教えて下さいます。

13 マルチン・ルターは晩年「キリスト者の人生の総決算」という有名な説教でこう言 いました。中略がいくつかあるのでご承知置きください。「愛の行いと信仰をはっきりと 区別する。この新たな考え方を身につけるのは、極めて難しいことです(中略)信仰のう ちにあるとは言え、(中略)心はいつも神の前で奢り高ぶり、考えます『なんだかんだ 言っても、ずっと御言葉を宣べ伝えてきたし、よく生き、多くのことを成し、あちこちで 宣教をしてきた。このことを当然、神様は考慮に入れてくださるだろう。』しかし、そう はいかないのです。人前では奢ることができます。(中略)ですが神の御前に立つ時は、 すべての奢りを捨てなくてはなりません。裁きではなく恵みを懇願することを覚えなけれ ばならないのです。  

生まれてこのかた、義のために働こうともがいてきた人間が、唯一の仲介者を信じて、 自分を引き上げよう、心のすべてを立て直そうとするのが、いかに険しく苦しいことか。 それを試みる者は誰でも分かるでしょう。  

私自身、およそ20年間福音を語ってきましたが、今もって、古く下劣な取り引きの願 いにしがみついていると思います。それは、自分が何か貢献すれば、神が私にめぐみを与 え、報酬として聖化をもたらしてくださるという考えです。めぐみの前に完全に降伏しな ければならないことが、未だに頭に入っていないのです、そうすべきであることは分かっ ているのに。」”私も貢献します、だから神様このおこないゆえに私を認めてくださるで しょう?神様このおこないゆえに私を好いてくださるでしょう?神様もちろん天国に行っ てもこのおこないゆえに私を思い出してくださるでしょう?”そう言いそうです。  

本当は”主よ私が申し上げたいのはただひとつ、あなたがすべてして下さいました。だ から私の信仰もあるのです。”と言わなければならないのに。

II.贖いの(キリスト中心の)メッセージの組み立て方
14 説教するにも布教するにも宣教するにも、メッセージの中にクリスチャンの本質を 保つことが重要です。ではどうやって、そのようなキリスト中心のメッセージを組み立て られるのでしょうか?資料の大きなIIにあります。

15 出発点はもうご存知ですね?特別難しいものではありません。第一回でお話しした 堕落した状態に焦点を合わせる( Fallen Condition Focus =FCF)です。覚えていま すか?すなわち聖書が宛てられた相手、つまりめぐみの御言葉を必要とする人々と、現代
人が共有する状態です。ここが出発点となります。この共有状態は次のように見定めま す。  

この御言葉に出てくる人物たちと自分は似ていないだろうか?その悩みは?問題は?彼 らを救うために神様は恵みを与えた。私と彼らはどこが似ていないか?  

このように始めれば律法的になったり道徳的になったりしない道が自ずと見えてくるで しょう。人々を穴いっぱいのチーズと見てください。その穴は真の堕落であり、人間の力 では埋めることは出来ませんね?そこが出発点、チーズの穴がスタートポイントなので す。むろん”穴は自分の力で埋めるべきだ”などと言って始めたらそのメッセージはそれで 終わってしまいます。そうではなくて堕落の状態をベースとして始めれば、メッセージは 間違いなくどんどん展開していくのです。  

では堕落の状態はどう見極めればいいのでしょうか?手っ取り早い3つのステップがあ ります。適切な出発点を見つけるにはどの御言葉についても次の質問をするのです。出発 点は必ずしも一カ所とは限りません。いくつかあり得ます。資料をごらんください。


16 第一ステップ/そのみことばは何と言っていますか?ハッドン・ロビンソンの本を 使って説教を学ばれた方はお分かりでしょうか、彼はまずこう訪ねます。主旨は何か?こ のみことばは何を言っているか?何が起きていているのか?書き手は何を伝えようとして いるのか?私が聞く福音主義の説教の90%はこれを出発点ではなく、最後のステップに もってきています。何が起きているのでしょう?何を伝えようとしているのでしょうね? 思い出してください、なぜ聖霊がその句を聖書に含めたのか。理由が分からない限り、説 教する準備はできていません。なぜその句、その節が聖書にあるのか問いましょう。


17 第二ステップ/その聖句がふれている困りごとは何か?基本的な脈絡は何か?何が 起きているのか?主旨をただつかむだけではなく、なぜそこにそのことが語られているの か?脈絡は何か問いましょう。

18 第三ステップ/なぜその聖句は単なる文字情報ではなく、人を変える力をもった言 葉となっているのでしょうか?その句を書き送られた人々、その句が語っている人々、ま たその句を書いた人々、彼らと自分とには何か共通点はないでしょうか?たとえば疑い深 いトマスについて考えます。なぜそこにいたのでしょう、私は彼とどうゆう所が似ている だろう。またある詩篇の作者は”自分の涙は一晩中自分の夢となった”と言っていますが私 たちは作者とどう似ているでしょうか?この作者がその詩を書いた時の状況に共通点を見 いだし始めると、なぜ聖霊がその句を聖書に含まれたのか見えてきます。単なる文字情報 ではなく聞き手を変えるのがみことばです。

19 「みことばの中にある共有の困りごとを探すことから始める。」このことが納得で きた方は私とともにどのような堕落状態に焦点が絞り込まれているか考え、例をいくつか 資料に書き出してみましょう。貪欲、高慢、利己的、不品行、不信仰、心配...そのほか十 戒のどれでも当てはまります。いま挙げたことには特徴があります。それを明確にしてい きましょう。これらは説教の題材として使えるものばかりなのです。つまりどれも人間の
罪となっています。ぜんぶ罪です。 貪欲、高慢、利己的、不品行...すべてメッセージのい い題材になります。

20 次ですが罪ではない堕落状態もあることを認識しておいてください。堕落した世界 の堕落した存在であっても聖書において必ずしも罪ではないこともあるのです。たとえば 堕落した世界に堕落した者として生きていて、予期せぬ悲劇に直面することがありません か?予期せぬ悲劇は罪でしょうか?違いますね。それは罪ではなく堕落した世界に生きる 堕落した生き物としての成り行きです。例をあげると孤独でいることは必ずしも罪ではあ りませんが、私たちが直面する困難のひとつです。それは聖書にもいろいろ書かれていま す。病気、病気も罪ではありません個人の罪の結果であることもありますが、必ずしもそ うではないと聖書は言っています。病気は堕落状態のひとつで、人生の中でもつらいその 状況をどのように乗り切れるか聖書は示しています。しかし必ずしも避難されたり、罪と されたりするものではありません。ただなお堕落状態のひとつなのです。聖書はそうゆう ことにも対処するのです。  

違いが聞き取れましたでしょうか?両者とも間違いなく堕落した状態に焦点が絞られて います。すべては人間の堕落した状態の結果ですが、すべてが罪ではないのです。こう やって堕落状態から見ることを始めたら、どの聖句も理解できます。聖書が人間を完全な ものとするために与えられたということは、みことばのすべて残らずすべてがこの堕落状 態に希望を与えるために書かれているわけです。  さて堕落状態が見つかったら、次にみことばがそれにどう対処しているか話しましょ う。この話をするにはまずキリスト中心のメッセージの独自の特色を押さえる必要があり ます。特徴づけるものは何か、資料をごらんください。

21 最初は逆にキリスト中心をぶち壊す要素、ただしい贖い的聖書解釈ではない要素を 見てみましょう。  

一番目のぶち壊し要素は律法不要論です。ある人たちは言います。”恵みを強調すると いうことは、律法に従う話はしないということだ。”これは聖書で正しい行いが求められ ていることや、神の掟に目をつぶる律法不要論です。私たちはそんなことは言っていませ ん。恵みを強調しても律法に従うよう求められていることは無視できません。メッセージ を堕落の状態に焦点を絞ることから始めたならそれは明らかです。神に従わなかったから 問題が生じているのですから、必ずやその問題について解き明かすことになります。律法 不要などもってのほかです。

22 キリスト中心のメッセージにつきまとうぶち壊し要素の二番目は、寓話的話作りで す。無理矢理イマジネーションを働かせ、キリストを旧約聖書のらくだの隊列の中に登場 させたり、言葉遊びをしたりします。シドニー・グレイダナスは「聖書のみSola Scrip- tura」という本のなかでこれを「ゴルゴダへの飛躍」と呼びました。イメージ的な遊びを するのです。例えば”エリヤは神の敵と出くわした時ある分かれ道にいた、それでイエス 様も何々をしている時やはり分かれ道にいた”といった感じで言葉遊びをします。”あるい はモーセはイテロの娘と井戸で出会った、そのようにイエス様も女と井戸で出会った”と
か。これも寓話的な言葉遊びです。みことば全体を通してキリストを宣べ伝えるというこ とは、こういうことではありません。寓話でもなく、律法不要的でもない本当の特色をこ れからお話ししましょう。

23 正しい贖い的な聖書解釈を特徴づけるものは3つあります。

a.聖書全体が神の救いの業を伝える一貫したひとつの歴史であると認識すること。
 聖書はひとつの歴史なのです。

b.すべての人物と出来事がこのひとつの歴史に関係してくると認識すること。
 聖書の中のすべてがひとつの歴史につながっています。

c.適切な解釈が部分部分を全体につなげると認識すること。

私とポール・ポイストラに強い影響を与えた本が先ほども紹介したシドニー・グレイダ ナスの著書「聖書のみ」でした。実はポールと私はこの本を通じて出会ったのです。もう 絶版になっていますが、私の過去の説教は自分でも失敗であったと感じさせてくれまし た。伝え方に問題があったとかではなく、福音がもつ人を変える力を見いだせていなかっ たのです。人々の道徳的な変化は見ました。でも霊的な生活がよくなるのは見なかったの です。人々のプライドが高くなりどんどん冷たくなっていくのを目撃しました。彼らは同 時に律法に従おうとしていました。自分で思う限り、なぜ自分の説教がこういう態度を増 長しているのか分からず迷いをもち始めました。自分は聖書に書いてあることを言ってい るだけなのに”これこれをしなさい、ヨシュアのようになりなさい”こういうことの何がお かしいのだろう?ところが「聖書のみ」を読んで、それが大間違いであることを知ったの です。非常に専門的な本でしたが私の人生で一番必要な時に出会ったと思います。私は神 学校で教えるようになって、近くの公園でポール・ポイストラとよくジョギングしたので すが、出会った頃お互い感が働いたのか二人とも「聖書のみ」を読んでいることがわかり その話で大いに盛り上がったのです。”私も読んだ””君もか!”と。それからというもの、 恵みのメッセージについて聖書全体から何を発見したかお互い意見を交換するようになり ました。著者のグレイダナスの言うことがすべて正しいとは言いません。大きな間違いも あると思います。しかし私たちの軌道修正をしてくれたことは間違いありません。そのう ちのひとつは聖書をひとつの歴史として捉えることでした。資料にもありますが鍵となる 部分を引用してみましょう。

24「聖書を、伝記の集大成として読む断片的な解釈に対して、贖いの歴史書として見、 贖いの歴史の集大成と見ることができる。(中略)贖いの歴史の集大成ということは、内 容すべてにキリストを中心とする本質があることを意味する。贖いの歴史とはキリストの 歴史である。キリストが真ん中に立ち、同様に始めにも終わりにもいる。(中略)聖書は そのテーマを最初に示している。創世記3章15節は、後に起きる出来事がすべて、女の 子孫と蛇の子孫の間の戦い、つまり、この世にこられるキリストとこの世を支配するサタ ンとの大戦争であることを示唆している。また、すべての出来事において、女の子孫が圧 倒的な勝利を納めることも示唆している。ということは、誰一人として、この歴史、また この偉大な戦いと無関係な人間はいないということだ。誰が敵で、誰が戦友か、その位置 づけはキリスト論的にのみ定められよう。」

25 グレイダナスがいうには、また私が正しく聖書をみても鍵となる節はヨハネ3章1 6節ではなく、創世記3章15節です。” わたしは、おまえと女との間に、また、おまえ の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼の かかとにかみつく。」”これは福音の原型、福音の始まりです。のちに悪魔の力を打ち砕 く贖い主が現れるのです。ではその部分以外の人間の歴史は何なのでしょうか?グレイダ ナスはそれが大戦争だと言っています。現代はサタンの力対女の子孫の力の戦いなので す。つまり人間の歴史はこの大戦争の展開ということになります。自分が大きな戦場にい ると思えば聖書がかなり分かりやすくなるでしょう。  あなたが丘に立って戦場を見下ろすと、こちらには騎兵隊、あちらには歩兵隊また向こ うには物資支援隊が見えます。斥候は前線から下がり砲撃隊はやや離れたところ、いろい ろな部隊で構成されていますがすべての部隊はこの戦いに参加しているわけです。戦争の 全体像と結びつけなければあっちで騎兵隊が何をしていて、こっちで歩兵隊が何をしてい るのか到底説明できません。ここにサムソン、あそこにヨシュア、そして向こうにモーセ の律法これらはすべてひとつの大戦争に参加しているのです。カルバリの丘に立って見下 ろしてみましょう。全部隊がこの丘に向かって集おうとしています。すべてはこの大戦争 の一部なのですから。

26 聖書を解釈するとき私は言葉遊びができないだろうか、ここに井戸が出てくるから 井戸で出会った女の話をしよう。などということはしません。言葉遊びや寓話は駄目で す。聖書のどの部分をとっても実際どのように大戦争に加わっているか、論理的に見てそ の位置づけがどうなっているか、解釈します。ですから私はみことばについて検討する 時”モーセの十戒はモーセの十戒、王の記述は王の記述、だから別もの”とは考えません。 またダビデ王について考える時”ダビデと言えば、イエス様の生涯でこんなことがあった な”というやり方もしません。こういう「~といえば~を思い出す。」というのがゴルゴ ダへの飛躍です。そうではないのです。どれもこれも人の子が蛇を打ち負かす大戦争の一 部、歴史に書かれていることはすべてこの戦いなのです。エデンの園であれ、大洪水であ れ、律法であれ、初代の家長であれ、王も、降誕も十字架も昇天も再臨も歴史上の出来事 はみんなこの戦争に結びつきます。その戦いはいずれ神が勝利するもので、神のご計画な のです。歴史的なところも教理的なところも神様は何らかのかたちで全体像に繋げていま す。聖書のある箇所では神が勝利者なのだと示し、またある箇所では大戦争の一部分を見 せています。すると分かってくるのはヨシュアが英雄ではないということです。だれが英 雄なのでしょう?すべての戦いの英雄は神です。神はやがて偉大なる戦いに最後の勝利を おさめます。我々はそれを見るでしょう。契約の民のために神が約束してくださいまし た。歴史のどの場所にも同じことが起きています。ヨシュアの記述はただ雄々しく強くあ れば、私たちも巨大な相手を倒せるという主旨ではありません。そうではなく、”人より 遥かに偉大で、すべてを克服される神に信頼せよ。神から離れてはなにもできない。”と 教えているのです。自分が掘っていない井戸や、建てていない町を与えてくださるのが神 です。神はすべてを与えてくださるかた、人間は何も自分に与えられません。神様が人間 に何を教えようとしておられるのか、それは脈絡の中で捉えましょう。歴史の中で現在は どこに当てはまるのか。資料をみてください。そういえばこうだとかゴルゴダに飛躍し
ちゃおうというつもりはないのですが、それぞれの出来事や聖句が贖いの歴史、またご計
画の中にどう当てはまるかみてみましょう。

27 サムエル・ブロッカーという人が1955年に書いた「講壇の力の秘密」という本 から引用します。「聖書のメッセージとは単に贖いの聖戦の布告だ。すなわち人類の苦境 に敷かれた神の逃げ道だ」もしブロッカーが苦境といわず堕落状態と言っていたら。私は 本を書く必要はありませんでした。しかしブロッカーは苦境という言葉を使いました。神 の逃げ道とは、人間が自分で切り開く道ではありません。人類が苦境から脱出するための 神の道、それを啓示するのが聖戦であり、聖書のすべてなのです。ではどうすればこの贖 いの啓示を掘り起こるのでしょうか?聖書全体に聖戦が啓示されていると言いましたが、 そこにある贖いの要素、特定の真理はどうやって掘り起こしたらいいのでしょう?

28 ひとつの間違ったやり方は資料にもある主題別アプローチです。これは意図はすば らしいのですが人間の権威しかありません。主題別アプローチがどんなものかご存知です か?神の家族としてのあり方とか、よりよい祈りの生活などそれがなんであれ贖いの真理 がクリエイティブに主題に付け加えてあるものを指します。これの最悪の例ともいえる説 教を聞いたことがあります。ぐずぐずして怠けない、それだけの内容でした。今日できる ことは明日までのばさない、神様の時間を忠実に使う者になりなさい。ぐずぐずするのは やめましょう。そして最後には新たな決心をした人は前にでるようにと招きの時がありま した。で、”神様のメッセージが聞けて嬉しいです”というのです。すばらしいですね。し かしそのメッセージには時間を上手に使いましょうということ以外何もないのです。なの にキリストに招くとはどうゆうことでしょう?本当に何も神に結びついていません。ただ 人間の権威が”これをするとよいですよ。今日読んだ聖句とは何の関係もないけれど、よ いことだからぜひやりましょう”そういっているだけ。まったく人間の権威です。

29 しかし私たちのほとんどは聖書を聖書の権威のもとで解釈する、釈義的なアプロー チを好むと思います。贖いの真理は次の3つの方法のいずれかの形で論理的に聖書に示さ れています。聖書にある贖いの真理をどう示すか?

30 第一はみことばそのものです。当然なことですが釈義的な説教はみことばを用いま す。実際にみことばはキリストやその救いの働きを語っているからです。マタイの26章 を読んで、神様の贖いの業が分からなければ、何も読んでいないことになります。ここに は十字架に付けられたイエス様について書いてあるのです。贖い的なメッセージとは、み ことばに書かれたとおりに言ってしまえばよい場合があるのです。救い主である神の優し さが表れ、人間の行いの義によってではなく、神のあわれみによって人間が救われたと書 いてあったら、その通りいえば良いでしょう。そして新約聖書に限らず、同じ意味を語っ ている聖句を探します。救い主に関する詩篇、福音書、書簡など。ほかにもたくさんある でしょう。ただしひとつ問題があります。もし実際にキリストが贖いについて述べている 節でしか贖いのメッセージができないとしたら、聖書のどれだけが使えるでしょう。1 0%くらいでしょうか?15%?実際にイエス様が贖いを語っている所からしか贖いの
メッセージができないなら、聖書のほとんどを逃してしまうはめになります。このアプ ローチはすばらしいのですが、これだけに限定されてはいけません。

31 贖いの真理の見つけ方の二番目はその聖句のひな形を見つけることです。キリスト の贖いの働きが表わされているひな形がどこか、だいたい旧約に表されています。  

特に改革派の間では宮、ダビデの王政、ヨセフの一生のように”これはキリストを表し ている”と、新約で示していない限り、型としては認めていません。旧約の中にキリスト の贖いのわざが表れているとする予型論はありますが今回は議論しません。非常に時間が かかりますので。それにしてもまださっきと同じ問題がのこります。もし神の贖いのわざ を直接書いてある聖句、また予型論のみに限定してメッセージをしてしまったら聖書のど れだけを無駄にすることになるでしょうか?かなりです。聖書の大半が贖いの真理を表さ ないことになってしまいます。では他にどのような方法があるのか見てみましょう。

32 贖いの真理はそれぞれの聖句からだけでなく、型からだけでもなく、脈絡のうちに あらわにされます。神の贖いの業という全体的な啓示のどこに当てはまるかを見極めま しょう。この視点から見ると、すべての聖句は次の4つのいづれかにあたります。もちろ んこれだけに制限する必要はありませんので、さらに他の分類を思いつかれたのならばそ れもいいでしょう。しかし私は次の4つでほとんど押さえられると思います。

33 a.キリストの働きを預言する。    
      b.キリストの働きを準備する。    
      c.キリストの働きを反映する。    
      d.キリストの働きの結果となる。 例を資料にあげてみました。

a.キリストの働きを預言するみことば 
34 最初はキリストの働きを予告している聖句です。もちろん預言の書はこれに当ては まります。救い主についての詩篇や、旧約聖礼典もキリストが人に変わってなす業を予告 しているのです。

b.キリストの働きを準備するみことば(ガラ3:24、ローマ4:23~25) 35 次にキリストの働きの準備となっている聖句があります。前に啓示された内容があ るからこそキリストが何を達成しなければならなかったかが理解できるのです。つまりそ れらは人間の理解を準備するためのもの、それらの聖句についてはキリストがなさなけれ ばならなかった働きに向かって人間を準備させていると理解した上で、私は説教したり教 えたりしています。前回の学びで引用したガラテヤ書3章24節を思い出してください。 律法は人間が信仰によって義と認められるためにキリストに導く養育係です。つまり律法 にはキリストが達成することを人に分からせるという準備の目的があったのです。おもし ろいことに律法だけでなく、旧約時代の信仰を説明しているところも準備のためにありま す。ローマ人への手紙4章23節から25節を覚えているでしょうか?「しかし、『彼 (アブラハム)の義とみなされた』と書いているのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる 私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは私たちの罪のために死に渡さ れ、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」ここでなぜアブラハム の話がわざわざ出てくるのでしょう?それはアブラハムのためではなく、そのほかの人間 のためです。アブラハムが神を信じたから義とみなされたのだと、人間が理解するために です。昔の出来事によって私たちはキリストの働き、また人間がそれに頼るべきであるこ とを理解します。律法と、信仰による恵みの記述の両方を理解することで、人間の準備は なされたのです。過去の出来事は人間の理解を整えました。 

c.キリストの働きを反映するみことば
36 次のものにはより焦点を当てたいと思います。これは実質的に聖書全体を通してど こでも使えます。預言的な聖句も、救い主の理解を準備する聖句も、やはり数に限りがあ りましたね。しかしキリストの働きを反映する聖句はそこに向かっていくことも、そこか ら発展させることも、聖書全体を通して出来るのです。そしてねじ曲げたり、何かを付け 加えたりすることもなく、贖い的に考えられます。そのように聖句にアプローチするには ある2つの問いを投げかけることが絶対的に不可欠です。ひとつはキリストの働きを与え た神の本質と特性について、その聖句はどう示しているか。もうひとつはキリストの働き を必要とする人間の本質や特性について、その聖句はどう示しているか。カルヴァンのレ ンズについてご存知ですか?人間は聖書というレンズを通して、現実を見ている。つま り”聖霊を通して私たちは真理の本当の姿を見ることが出来る”というものです。  

さて私は2枚のレンズがある眼鏡を思い出してほしいと思います。先ほどの2つの質問 つまり2枚のレンズを通せば、聖書のどこを読んでいようとも贖いの真理が見えてくるの です。旧約聖書、新約聖書、系図、律法どこを読んでいても2つの質問を繰り返すので す。贖いを与えている神について、この聖句が示している神の本質や特性は何だろうか? そして2枚目のレンズ、贖いが必要な人間について この聖句が示している人間の本質や特 性は何だろうか?これは皆さんの聖書感を変えることになるでしょう。  

例を考えてみましょう。家族と一緒に夕食後のデボーションで歴代史を読んでいたら、 イスラエルの民がバビロン捕囚から帰った時に、土地を振り分ける場面に出くわします。 子供たちにその土地の長いリストを読ませようとすれば確実に嫌な顔をするでしょう。そ こで大人も”なんで聖霊はこんなことを聖書に入れたんだ?”と思います。まさに退屈その もの、意味もよく解らない、何々の家系はどこそこの○○河と☓☓河の間の土地をもらっ た。何でこれを読まなくてはならないのでしょうか?  

考えてください、イスラエルの民は罪と不実のために70年も捕虜として捕らえられて いたのです。別に聖くなったわけではないけれども、とにかく帰ってきました。神様の言 葉であるヘブル語も律法も思い出せません。もともと自らの罪のため捕囚となった彼らは 約束の地カナンに戻ってきたのです。そこで神様がもう一度土地を割り振りました。この 家系はここの土地、そこの家系はあそこの土地という感じに目的は何でしょうか?聖書の 別の箇所と比べてみましょう。歴代史でひとつの家系が受け取っている土地はどういう土 地ですか?そう、エジプトから約束の地に戻ってきた時に先祖が受け取った土地です。先 祖たちに約束された通り、全く同じ土地が同じ家系に戻されたのです。この民は神様に対
してちっとも誠意がなかったのに、神様はどうだったでしょう?誠意そのものでした民に 人徳があったからですか?とんでもない。神の憐れみのみによるのです。ではここで何を 学べるでしょうか?贖いを与える神様の本質として、何が分かりますか?”人間は不信仰 で神は絶対に誠意を失わない方だ”そういうことです。では人間の本質としては何を学び ましたか?”人間は人徳によって契約の民となるのではありません。完全に神様の憐れみ のみによる”そういうことです。ですから聖書のどの句を読んでいようとも、同じ質問を してください。贖いを与えてくださる神様の本質や性格は何か?この聖句は贖いを必要と する人間についてどういう本質をもっていると教えているか?最も道徳的、律法的といえ る句を読んでいようとも、この質問を投げかけていれば贖い的に考え、教え、反応できる ようになります。箴言5章のわが子よ遊女のうつくしさに誘惑されてはいけない。といっ て内容をとってみましょう。キリストの姿はみえませんね。そこで自分に質問してみま す。この聖句は贖いを与える神様の本質はどうだと言っているのだろうか?神様がわが子 よ遊女のうつくしさに誘惑されてはいけないと言っているのです。こういう命令を与える 神様とはどのようなお方でしょうか?ご自身について何を語っているでしょうか?何を重 んじられるでしょうか?その性格はどのようなものでしょう。神が重んじられるのはそれ は義、忠実さ、純血、契約そうではないですか?また”わが子よ”と呼んでおられることも 忘れないでください。これはどういう意味ですか?神が父だということです。この命令を 通して神様はご自分が聖く、愛のある方だと示していらっしゃいます。次に人間について 何が分かりますか?人間の本質とは何でしょう?人間はうつくしさにそそのかされる者だ ということです。誘惑に弱いのです。  

こうして贖い的に考えてみますと、神様は聖く、人間は弱い、神様は父で、人間は子供 神はふらふらしている人間に善良なものを与えてくださる。以上のことが学べました。し かしそんなことはここに書いてないじゃないか、そう言う方もいるかもしれません。いい え、実際に書いてあるのです。脈絡をみればそれがポイントであることが理解できます。 聖書は箴言5章の何節といった具合に、狭い範囲に限定してみるものではないのです。カ ルバリの丘の上に立てば、神様がすでに説明された歴史全体を見渡せます。こうするのは 神様の本質と目的を解き明かし、神の民を神自身に引き寄せるためなのです。それが神の 目的ですから。神様はみことばの中で私にたくさん教えてくださいました。だからみこと ばをひも解く時には、神様が与えてくださった脈絡をみます。脈絡から遠ざかり、聖書に ついて他に知っていることを無視し、そんなことはとるに足らないなどというのは間違っ ています。小さい断片だけを詳しくみるというのは駄目です。神様はご自身の本質と神の 道をみせてくださいました。ですから聖書を読む時に私に与えられた義務はここでは神様 が反映していると教えてくださったものが、どういう風に反映されているかと問うことな のです。贖い的に考えながら、聖書を読み進んでみてください。そのうち神様が与えられ た脈絡にそって、それぞれの聖句にある恵みを解き明かすようになるでしょう。

 *それらを示す聖句は、歴史的な結末である場合も、推論の場合もある。また明示されて いることもあれば、含蓄のみの場合もある。 

*旧約の聖者と呼ばれる人間はみなひどい欠点があり、人間に贖い主が必要であることの 証明となっている。

37 資料にある空欄を埋めていきましょう。聖書を通して贖いのわざをみる新しいレン ズについてですが、ここの空欄には何が入るでしょうか?
     1、聖書のこの部分は、贖いを与える神様について何を解き明かしているか?
     2、聖書のこの部分は、贖いを必要とする人間について何を解き明かしているか?
以上の2つがみことばについて贖い的に考えるため何度も何度も通してみるレンズです。

d.キリストの働きの結果をあらわすみことば(ロー8:1,2,ピリ2:12,13,ヘブル4:14-16) 
38 最後のカテゴリーを見てみましょう。キリストの働きの結果を表す聖句です。私 は”祈りの生活を向上させる”と題したすばらしい説教を覚えています。長く祈ること、み ことばを使って祈ること、などこれらの事をすれば祈りの生活は向上しますといった内容 でした。でも忘れられている要素があります。仲介者です。その方が神の右に座している からこそ人間は恵みの御座に近づけるのです。その方がいるから、人間は神に近づくのを 赦されています。長く祈ったからというだけで、祈りは通じるでしょうか?時々は私もそ んな勘違いをしてしまい、祈りを空回りさせてしまいます。大切なのはこう自問すること です。“ちょっと待て、自分が神様に近づけるのは甦られたキリストが神にとりなしてくだ さっているからだと忘れていないか?そこをちゃんとおぼえているか?”イエス様がいなけ れば祈りはしょせん無駄です。すべてはキリストの働きの結果なのですから。時にはみこ とばに対する私たちの見方が、キリストの贖いのメッセージをどうみるかを表すことにな ります。ここまでは方法論をお話ししてきました。では最後に贖い的メッセージの仕上が りについてみてみましょう。

III.贖い的なメッセージはどういう風に聞こえるか
39 贖い的なメッセージは最終的にどういう風に聞こえるのでしょうか。聖句の中に贖 いの真理をみようとしたら、そのメッセージはどんな印象になると思いますか。メッセー ジの中で贖いのテーマは強く響くでしょうか。頑張りまくる主義や「危険なBe」のよう なメッセージとは違うことは間違いないでしょうが、実際はどうなのか。聖書全体を通し てキリストの目的をとらえた贖いのメッセージは千通りも考えられますが、基本的には次 の通りです。

40 第一にそれは罪にも関わらず恵みが降り注がれることがわかる、保証と養子縁組の メッセージとなります。典型的な題材は神の愛にあるなぐさめとか、聖書の安息日の概念 などです。安息日がテーマといえば日曜にしていい事としてはいけない事のリストを並べ るようではまだ贖い的とはいえません。ところで聖書的な贖いの概念とは何ですか?神様 は世界を造られたあと、休まれました。すべての労働を休みました。七日目には朝と夕が なかったというのは議論の的になっていますし、どう読み取るかにもよりますが、ともか く人間も神の休息に入った事が分かります。神様が休まれたので、人間も神が休む間休ん だのです。エデンにいた頃の人間は安息日を知っていました。人は神とともに休みまし た。しかし罪をおぼえたなれの果てに、エジプトの奴隷、召使い、労働者となってしまい
ました。やがて神はイスラエルの民に束縛から解放すると約束しこう言ったのです。”あ なたたちは束縛の地からカナンと呼ばれる地に行くことになる”カナンの地は安息の地と も呼ばれます。”カナンの地、すなわち安息の地で束縛から休息へと導こう”神はそう言っ たのです。契約の民は何度も転びます。自分たちでは契約の目的を果たすことができませ んでした。だから神様は仲介者を送らなければなりませんでした。ヘブル人への手紙3章 には何とありますか、ここでも神の民のために安息があると記されています。神は安息に 入りなさいと言います。なぜならイエス様の元に来る時、人間は一生懸命働かなくていい からです。骨折って働いてもイエス様に認めてもらったり、好いてもらったり、恵みを得 たりすることにはなりません。受け入れてもらうために自力で頑張ることから人間は解放 されたのです。人間はいま、神様の安息の中にいて、自分の労働はずっと休んでいます。 再び神の労働に入ることができたので、人間の労働は休んでいるという意味です。人間が 神によく仕えることができるのは、しっかりとした休息があるからです。まだ現在の状態 は完璧ではありませんが、やがては涙で満たされたこの世界から解放されて、天の御国の 新しい天と地で永遠に主とともに住まうことになります。黙示録がこのことを何と呼んで いるかご存知ですか?やはり神様の安息に入るとあります。安息日は保証をしているので す。人間の働きではなく、神の働きによって。神のものとして人間が創られたこと、また 人間が神の王国に入ること。人間は神の民で、神の王国は人間ではなく、神の業により創 られたのです。そして人間は神の休息に入ります。安息日は素晴らしい保証のメッセージ なのです。

41 さて次に神との養子縁組について話しましょう。神様との親子関係をしっかり理解 するまではキリスト者の生活を送ることはできないとさえ言われます。自分ではなく、神 様との働きによって、神様と結ばれていることを理解しましょう。  

この結びつきを保つのは人の良さでも悪さでもありません。あなたが神の子ならば、こ の関係を変えることはあなたにはできないのです。あなたもわたしもこの間柄、神との中 に影響を与えることはできます。しかし神の子でなくなることは決してありません。それ が分かっているからこそ私は安心していられます。私が強さと能力を持って神に仕えるこ とができるのは神の愛のおかげなのです。いい子でいたらかわいがってあげるというよう な条件付きの愛の中で親に育てられた人はたくさんいると思います。しかし神様は親子関 係だけしっかり把握していなさいと言うだけです。”私はお前を愛する。それはお前が私 の子供だからだ”これは無条件の愛です。この愛のおかげで私たちは神に仕えることがで き、危険を冒しても伝道に出かけられるし、どんなに落胆しても冷や汗をかいても、いら ついても、何とかやっていけるのです。神があなたを子供とされたのです。この揺るぎな い結びつきがあればこそ強さと力をもって生きていけます。これこそ人間の罪にもかかわ らず降り注ぐ神の恵みです。

42 さて贖い的なメッセージがどのようになるか、その2番目は罪(責)を打ち砕く恵み にあふれた義人とゆるしのメッセージです。反律法主義とはまったく違い、真にキリスト 中心的なメッセージは悔い改めの必要性をよく題材にします。私たちは毎日悔い改め、福 音を自分の心に伝えなければならないのです。ルターの有名なセリフをご存知でしょう
か?”私たちは救い主がいかに偉大であるか認め、罪をしっかり認め、日々自分に向かっ て福音を説教しなければならない”つまり悔い改めだけではなく、神が浄化してくださる ことも語らねばなりません。人々が自分の罪の重みを実感するだけでなくキリストがそれ をすでにぬぐい去ってくださったことをも教えるのです。

43 3番目は罪の支配を打ち砕く恵み、聖化のメッセージです。この世のもの、肉と悪 魔に対する勝利が典型的な題材です。何をもって勝利できるのかといえば、聖霊による備 えとみことばによる力です。イエス・キリストにあって私たちは新しく生まれ変わりまし た。以前は罪を犯してばかりでしたが、今は罪を犯さない能力が与えられたのです。根本 的に本質が変えられたためです。罪から遠ざかる力があります。もちろんこれからもう絶 対に罪を犯さないという意味ではありませんが、しかし以前はまったく持っていなかった 能力が今は与えられたのです。かつてはやることなすことすべて罪という時がありまし た。しかしもう違います。主は人間を神のものに変え、聖霊を与え、また勝利をもたらす みことばも与えてくださいました。ですから私たちは神がくださった罪を犯させない能力 について宣べ伝えられるのです。

44 では贖い的メッセージがどう仕上がるのかの最後、4番目です。それは聖さをうな がす恵みをテーマにした、礼拝と服従についてのメッセージです。典型的な題材は神を愛 するがゆえに人は聖くなるというもの。イエス様を愛すればイエス様を悲しませたり、傷 つけたりする生活に我慢できなくなるのです。つまり愛すればこそ従うという生き方にな ります。愛に基づいて仕えるのです。この4番目のタイプがキリスト中心のメッセージと して一番よくみられるものでしょう。すなわち愛を持って仕えること。神様を愛すること が動機となって、仕えることです。昔から神への服従というテーマは激しい論争を生んで きました。神への服従が恵みを受けるための資格だとする考え方は排除しなくてはなりま せんが、かといって服従を人生に必要のないことだとすることは違うからです。もしも神 への服従が恵みを受ける資格にはならないと私が言ったら、”え?従う必要がないってこ と?”とつっこみが入るでしょう。そうではないのです。しかし服従そのものが恵みを勝 ち取るわけではありません。恵みを正しく理解することでこころが変えられ、自然と従え るようになるのです。でもこれを言い表すのは難しいですね。教えるのも難しいです。

45 聖さの必要性と適切な動機を伝えていくのは福音主義にとって一番難しい課題かも しれません。聖さの必要性とその動機付けは次回の講義をまるごと使って話していきたい と思います。今はこう考えてみましょう。皆さんはアンソムという人が語ったキリスト教 史の中でも非常に古いたとえ話をご存知でしょうか?それは”アンソムの花”としてよく知 られています。野原で父親のために花を摘んでいる女の子がいました。その子は花束を 作ってまずお母さんのところにやってきて見せました。”これね、お父さんにあげるの”お 母さんはその花束を見ました。すると野菊に混じってとげや雑草が入っていたのです。こ れではお父さんにあげるのに相応しくありません。そこでお母さんは花束を預かって、と げと雑草を取り除き、庭から数本の花を加えて”これをお父さんにあげようね”と言いまし
た。アンソムいわく、キリストは人間の良い行いを束ね、その中からとげやら雑草やらを 取り除き、さらにご自分の義をもって加え、父親に渡すに相応しくしてくださるのです。  

次回は神の贖いがはっきりと分かる方法で、人々にみことば全体を語ることを学んでい きます。どうか神様がその必要性と正しい動機づけについて見せてくださいますように。 お祈りします。お父様、学びを続けていくにあたって私たちを導いてください。イエス・ キリストのみにある贖いと、神の恵みのメッセージを聖書から解き明かす方法について今 回わずかですが知ることができました。聖書のメッセージをさらに知るにつれ、私たちの 口から出る言葉はどう変わっていくのでしょうか。私たちを助けてください。教えてくだ さい。変えてください。そして私たちがあなたのひとり子の栄光について表し、その名が すべての名にまさって知られるようになりますように。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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