Sunday, December 24, 2017

ガラテヤ4:4−5「クリスマスの意義」


ガラテヤ4:4−5「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」

メッセージを聞く:松本豊かな命教会 (Matsumoto Abundant Life Church) Live Stream - YouTube

ナポリオン・ヒルは、現代人に7つの不安と恐怖があると指摘しました。それは、老いて行く恐怖、死の恐怖病気の恐怖、貧しさの恐怖、失敗の恐怖、愛を失う恐怖、自由を失う恐怖。心にある恐れをあまり人には見せませんが、何の恐れであっても、心の奥深くにひそんでいるのです。。。聖書は、恐れについて、どのように語って下さっているのでのしょうか?。。。今日のポイント。クリスマス(キリストが来て下さる事)は、恐れを取り除き、安心を意味しています。

1。4節、クリスマスの事実。その歴史性。クリスマスの事実、その意義が深く心に入ると、本当の安心が与えられるのです。

先ず、面白い角度から。サンタは、本当の歴史にいた人物でした。最近、南トルコの辺りに、本当のサンタクロースの墓が見つかったのです。西暦343頃、天に召されたのです。実名は、聖ニコラウスで、墓は、教会の下でした。彼は、多くの遺産を貧しい人や病人に与えたのです。子供が好きで、多くのプレゼントを密かに上げました。後、寛大な人として有名になりました。

でも、サンタの歴史性よりずっと大事なのは、イエス・キリスト、その誕生と生涯の歴史性です。ガラテヤ4:4「しかし定めの時が来たので」とあります。そして、歴史に何が起こったのかを記録しています。「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女(マリア)から生まれた者。。。となさいました。」クリスマスですね。当時の世界は、世の救い主の誕生の為に丁度良かったのです。ギリシャ語が共通語で、ギリシャの文化が広まっていました。ローマ帝国によって、比較的に安全でした。ユダヤ人は、救世主を期待していたのです。そして、主イエスは、歴史上事実生まれ、人の間に住まわれました。。。西暦後37頃から100頃、ローマ帝国に仕えていたユダヤ人歴史家ヨセフスが「古代史」でイエス・キリストについて記録しました。「そのころイエスという者が現れた。もし人と呼ぶべきであるとすれば、まことに賢人そのものであるといわねばならない。なぜなら、彼は、驚くべきわざをなし、喜んで真理を受け入れる人々の教師であった。彼はユダヤ人ばりでなく、多くのギリシャ人をも指導した。この人がキリストであった。そして彼は、我々の指導者達の非難を受け、ピラトウスが彼を死刑にした。先にキリストを愛した人々はとだえることはなかった。そして今でも、彼にちなんで名ずけられた『クリスティアノス』の一族は消滅しない。」都合良いおとぎ話しではなく、キリストは、本当にこの世に来たのです。本当に救いを与え、本当に安心を与えるのです。

2。5節、クリスマスの意義。5節で「ため」という言葉が2回繰り返されてあります。なぜキリストがこの世に来たのか?その理由が書いてあります。一、私たちを贖うため。二、神の子どもにするため。究極的な安心は、生ける神の子供であることです。私たちは、肉体的に、肉の親から生まれたように、私たちは、霊的に(心の面で、神に対して)天の父によって生まれなければなりません。

一、5節前半、束縛から「贖い出すため」とあります。最近学校のきつすぎるルールを「バラック拘束」と行っているようです。歴史家阿部謹也(きんや)氏は、こう書いています。「私たちは皆『世間』の中で生きている。この『世間』が欧米にはないもので、日本独自の生活の形である。日本には『世間』という人と人の絆があり、その『世間』が個人を束縛している。私たちは自分の意見を積極的に述べることに得意でない。特に全体の意見とは異なる自分の意見を述べることには消極的である。なぜなら『世間』の中では目立たないことが大切であり、控えめな態度が求められているからである。服装も態度も『世間』とあわせなければならない。言葉では個性的な生き方は求められていても、現実には顰蹙(ひんしゅく)を買うのである。周囲に合わせて生きてゆく生き方が私たちには求められている。」。。イエス・キリストは、そのようなしがらみから、私たちを解放するために来たのです。キリストは、私たちの代わりに、縛られ、むち打たれ、十字架上に釘づけられ、死なれました。それは、私たちを束縛から「贖い出し」、解放するためです。生ける神を礼拝し、人を愛する事が出来るように、自由にして下さるのです。

二、5節後半、「子としての身分を受けるようになるため」とあります。そのために来たのです。ここに究極的な安心があるのです。天地宇宙を造った生ける神御自身の子供になれるのです。

ファーガーソン牧師は、こう言います。「救いは、本当に恵と愛によって存在することを私たちは信じられないのです。その意味合いを理解するのに苦しむのです。私たちの身分は、(神の)子供なのに、僕の考え方をもっているのです。」神の子どもであることを信じて、多く知って、それでも捨てられた、孤独を感じます。「頑張って、良いクリスチャンになるから」と言って、自分に集中し、過去の失敗や罪集中し、父なる神さまに本当に愛されているとは到底思えないのです。常に自分は、失格者と思い、罪悪感を感じる。つまづく時、立ち直れない。自分を罰する。批判に敏感。人と比較したりして、ねたむ。自分を防御する。神様の子供としての身分を持っていながらも、それを実感していないのです。

イエス様は、なぜこの世に来たのですか?贖い出すため、神の子供としての尊い身分、権利、特権を与えるためです。。。この「子としての身分」は、当時、法律的な意味があったようです。養子の子供を「父親との特別な関係に置いたのです。過去の負債は、全て抹消され、養子となった人は、その家族の中で完全に新しい生活を送りはじめたのです。」。。私たちは、キリストを信じる信仰によって、罪が取り除かれ、義と認められるだけではなく、子としての身分が与えられたのです。理解に苦しむことですが、父なる神が御子なる神イエスを愛するように、私たちをも愛するのです。私たちは、安全で、安心出来るのです。神様との関係は、保証されているのです。

宗教改革のマルチン・ルターは、先ず、弁護士でした。後、修道士となった彼は、旧約聖書の律法を学んでいたのです。彼は、聖い正しい神の要求を知っていたのです。そして、それによって彼は、気が狂いそうでした。静かな孤独な所でおこりました。ルターのいわゆる「塔の体験」は、世界の歴史を変えました。ルターは、自分の体験をこう書きました。『私は、パウロのローマ人への手紙を理解したくて嘆いていました。一つだけの表現「神の義」が理解出来なかったのです。なぜなら、私は『神が正しくて、正しくない人を裁く正しさ』だと思っていました。私の情況は、こうでした:私は、完璧な修道士でした。が、私は、良心の痛む罪人として神の前に立っていたのです。また、私の行いが神を喜ばす自信は、ありませんでした。ですから、私は、正しい怒る神を愛していませんでした。いや、神を憎み、文句を言っていました。。。夜も、昼も、私は、考えました。私は、やっと「神の義」と「義人は、信仰によって生きる」と言う両方の言葉を関連づけました。私は、つかんだのです。神の義は、こうだと分かりました。『ただ恵みによって、あわれみによって、信仰(信じ仰ぐ事)によって、神は、義と認める。』それゆえ、私は、生まれ変わったのを感じました。開いた戸を通ってパラダイスに入ったのです。』。。ルターは、私達に語りかけます。『あなたは、キリストは、自分の救い主だ、と言う真の信仰があれば、その時、あなには、恵み深い神を知っているのです。なぜなら、信仰は、あなたを導き入れます。信仰は、神の心と志しを開きます。そこで、神の聖い恵みと溢れる愛を見る事が出来ます。信仰によって神を見る者は、天の父を見、慈しみ深い友を見ます。』天の父を見!!!

私の親は、私に何回も「あなたは、私の愛する子。私は、あなたを喜ぶ」と言いました。親に言ってもらうのは、嬉しいです。でも、天の父は、イエス様に言ってように、キリストを信じ仰ぐ私にも、あなたにも、言っています。「あなたは、私の愛する子。私は、あなたを喜ぶ。」ここに本当の安心があります。

イエス・キリストが生まれ、十字架上で死なれたのは、私たちに「子としての身分」立場を与えるためです。でも、さらに、聖霊様がその身分を心の中で理解させ、主観的に実感させて下さるのです。神の子どもであることをより確信させて下さるのです。イエス様を信じる信仰によって、客観的に罪が赦されたからこそ、御霊が霊的に精神的な深い所の心に安心を与えるのです。救いは、あなたの知識や理屈だけではなく、感情にまでに入って来るのです。神とより親密な関係を持ちたがるのです。神様の子供である確信は、キリストの贖いのゆえにあります。が、聖霊様がそれを適用すると、より確信を持てるのです。このような確信は、他の哲学、宗教にはないです。私たちは「『世間』から排除されることを最も恐れて暮らしている」と阿部氏は言います。しかし、聖書は、こう言っています。『けして神から、神の愛から、子としての身分から私たちを排除されることはない』と。

どのようにしてこの「子としての身分」を体験出来るのでしょうか?先ず、体験そのものを求めないのです。こうするのです。御子イエス・キリストを通して私たちを贖なった神を誉め讃えるのです。聖書を読みながら「神様、あなた様を表して下さい。あなた様なくしては、私は、ナッシング」と叫ぶのです。神様御自身を崇めるのです。その聖さ、恵みと愛の麗しさ、十字架を仰ぎ見るのです。

神の子供としての身分を体験出来るのです。このように描いてみましょう。あるお父さんは、自分の小さな息子と歩いています。息子は、お父さんを知っているし、お父さんの愛をも知っています。でも、突然お父さんは、止り、息子を抱き上げ、抱きしめるのです。口ずけするのです。男の子の身分は、前とは変わらないのです。でも、新たにその身分を喜んで、お父様の愛を深く深く知るのです。。。私たちは、このように、さらに神の愛を実感出来るのです。

赤ちゃんは、叫ぶ時、親は、いつでも来てくれると思います。私たちも、天のお父様を「パパ」と叫び、祈ることが出来るのです。。。アブラハム・リンカーンが内閣と相談していた時でした。障害をもっていた息子が突然入って来ました。リンカーンは、国の相談事を止め、その息子を抱き上げ、注目しました。。。天の父も、私たちに、それ以上をしてくださるのです。

2000年前のある日、ギリシャのアレクサンドロス大王の将軍の一人が大胆に彼にお願いしました。「娘を嫁に行かさなければならないです。お金が必要です。」「あなたは、素晴しい将軍。喜んでする。どのぐらい必要?」将軍は、信じられないような金額を言いました。アレクサンドロスは、怒らないで、喜んで「もちろん、私の宝の倉庫に行け。必要な全てもらいなさい!」と言いました。将軍がさって行きました。そして大王に回りに人は、驚きながら、聞きました。「どうしてそんな金額を上げたのですか?その上、喜んで?」「その莫大な金額を願う事によって、彼は、私の寛大さと栄光を認めたのです。」。。私たちは「生ける神が私たちを御自身の子供にしてくれなんて」信じられないのです。でも、そうです。信仰によって、生ける神の子供です。信じましょう。そこにある特権を喜びましょう。

高校生の頃、弟ダン、同級生のキースと私が青木湖でキャンプしました。他の皆がキャンプする所ではなく、けっこう離れた暗い所でした。怖かったです。父が連れて行って下さいました。でも、父が帰って来て、拾って下さった時の安心を今もはっきり覚えています。親が与える安心です。でも、天のお父様の、イエス様とその贖いを通して、知る安心は、その愛は、どれほど素晴しい事でしょうか?1ヨハネ 3:「私たちが神の子どもと呼ばれるために、−事実、いま私たちは神の子どもですー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」

阿部氏は「世間」はこう言うと書きました。「どのような宗教にせよ熱中してはならない。どのような思想でもそこに自分を賭(か)けてはならない」。しかし、私は、私たちは、この方イエスに全てをかけ、熱心になり、喜ぶのです。なぜなら、クリスマスの意義は、次です。こんな私たちのために主イエスは、生まれ、私の罪を負い、代わりに死なれたのです。私たちを解放し、子供にし、安心と意義を与え下さいました。ですから、私たちは、この恩方を信頼し、喜んで熱心になり、恩方に全てをかけるのです。

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